帰り道みたいな感情

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2025年の梅雨頃の話。

ライブが終わったあと、駅までの道を一人で歩きながら、しばらく変な感覚になっていた。

いいライブを観た、というだけじゃない。

悔しかった。

ステージの上の人たちがみんな、自分の弱さも、嫉妬も、みっともなさも、全部抱えたまま歌っていたからだ。

自分の写真が、少し薄っぺらく感じた。

上手く撮ること。
褒められること。
安全な場所から、分かったような顔をしていた気がする。

自分は何を賭けて写真を撮ってきたんだろう。

終演後の湿った空気。
ケーブルを巻く音だけが、やたら耳に残っていた。

歌は、その人自身から逃げにくい。

声も、
言葉も、
立ち方も、
その人自身が滲む。

だから怖かった。
そして、少し羨ましかった。

もちろん、音楽と写真は違う。
写真には写真にしかできないことがある。
自分は今でも、写真という表現が好きだ。

でも最近、その「好き」の中に、少し違う感情が混ざり始めている。

ポートレート撮影は、ある意味で成立しやすい。

構図。
光。
空気。
間合い。
表情。

自分なりに真剣に考えてきた。
でも、被写体の魅力に助けられながら、自分は何者かになった気でいただけじゃないか。

そんなことを、ライブハウスで思ってしまった。

ステージでは、感情が連続して変わっていく。
整える前に、もう次の表情が来る。
考えている暇なんてない。

その姿を見ながら、自分は、ちゃんと人間を撮れているんだろうかと思った。

ライブが終わったあとの帰り道。
撤収後の静かなフロア。
写真スタジオで言うなら、ライトを落とした白ホリの空気。

そういう場所にだけ残る感情がある。

たぶん自分は、そういう「帰り道みたいな感情」に惹かれている。

最近、自分は撮ることについて、前より少し慎重になった。

被写体を素材として消費してはいないか。
その人が安心して立てる空気を、自分は作れているか。

撮る側も、
撮られる側も、
少しだけ勇気を出せる撮影会にしたいと改めて思った。

界隈の空気とは、少しズレているのかもしれない。

でも、うまく撮れたかだけではなく
何を感じたかを持ち帰れる場所にしたい。

以前より少しだけ、写真を好きになり直している気がする。