目の前のその人と、ただ同じ景色が見たかった。

この記事は約3分で読めます。

「関与する」という言葉に、あなたはどんな印象を抱くだろうか?
それは介入なのか、主導なのか、それとも…ただ、静かな共鳴のようなものなのか。

──前回の記事で、こう書いた。

「モデルの創作意欲が、シャッターの手前でふと立ち上がる瞬間がある。
その流れに、ただそっと関わろうとする――。それだけで写真は、ほんのすこしだけ、芯のあるものになっていく気がする。」

この感覚が、ここ最近あらためて自分の中で大きくなっている。
だから今一度、立ち止まって考えてみたくなった。
ポートレート写真を撮るとき、自分はどんなふうに「関与」しているのか。
そして、それがどういう形で、写真に写り込んでいるのか。

撮影という行為は、単に「出来事」を記録するものだと、どこかで思い込んでいたフシがある。
起きていることの「現れ」を、ただ受け取るような作業。

自分と同じ感覚の人、いない?

でもポートレートに向き合っていると、どうやらそれだけじゃないと気づかされる。
自分は明らかに、何かを「形づくって」いる。

スタイルを壊さず、輪郭を美しく仕上げるために、光を回し、構図を決め、タイミングを狙う。
そうやって、撮りたいと思える地点へと、意図的に導いていく。
それがうまくいったときの高揚感 ―― その「持っていった」感覚こそが、自分にとってのポートレートの核心だ。

もちろん、そこにはエゴがある。
好みもあれば、偏りもある。
けれど、それを自覚しながらも、相手に誠実でいようとする気持ちは手放さない。
それが最低限のモラルだし、関係性の根っこでもある。

モデルの中には、自分のスタイルを強く持っている人がいる。高い技量を持つも人も少なくない。
ポーズの傾向、視線の流し方、体の預け方 ──
そういう「表現のくせ」が、写真の中に自然と現れてくる。

そうした身体のニュアンスと、自分が好きな構図や光の癖がぴたりと重なる瞬間。
その交点に立ち会えたときの感触が、たまらなく熱い。

「癖」って、学んで身につけるものじゃない。
書籍を読むよりも、日常を眺めている中で、
「あ、これ好きだな」と体に入ってくるもの。

何枚も何枚も見るうちに、それが無意識の棚にストックされて、
気づけばシャッターを切る手に染み込んでいる。

世の中ではよく「インプットが大事」と言われるけれど、
ほんとうに問われているのは、その情報をどう自分の肌感にまで落とし込めるか、だと思う。

そのためには、心がびたびたに濡れていないといけない。
鈍感なふりをしていたら、感受性なんて育たない。

感動屋じゃなくていい。
でも、美しいものを前にして、なにも感じない自分にはなりたくない。

まずは褒めることから。
目の前の人の良さを、ちゃんと言葉にすること。

女子ってこれが本当にうまいよね、感動する。

いまは、そういう“しなやかな距離感”が男子界隈でも、ちゃんと成立する時代だと思っている。

上下でも主従でもない、互いに尊重し合う構え方。
主義主張の個性を保ったまま、一緒に何かをつくるというスタンス。

そういう関係性が成立するのが、いまの時代のいちばん良いところだと思う。
そして、それは撮影現場でも、確実に成立しうる。

媚びているわけじゃない。
迎合でもない。
でも、私は信じてる。
相手への敬意や熱量は、必ず写真にあらわれる。

その一枚が、誰かの心に残るとしたら。
それは、撮る側もなにかを差し出した写真だからだ。

だから、撮る側はただ「うまく撮れた」と満足するだけじゃ足りない。
その背後にある自分の眼差し、感情、影響された何かすべてを引き受けたうえで、
一枚を差し出す「覚悟」が必要なんだと思う。

そうすることで、モデルの創作意欲とこちらの意志が本当に混ざり合って、
写真が「表現」として立ち上がってくる。それが我々の写真の「輪郭」となる。

一方通行の撮影じゃない。
混ざることでしか、写真は芯を持たない。

だからこそ、忘れずにいたい。
「撮る」という行為は、自分が差し出したぶんだけ、写真に体温が宿るということ。