スナックみたいな動画を、今日も見てしまう
SNSを開くと、
面白い動画や、ライブの“いちばん美味しい瞬間”だけを切り取った
ショート動画が次々と流れてくる。
つい見てしまう。
スナックみたいに、気づけば時間を使っていて、
そこに少しの罪悪感も残る。
でも同時に、そこには確かに「出会い」もある。
知らなかった表現、初めて触れる音、
思いがけず心を掴まれる一瞬。
だから、すべてを断ち切ることはできない。
自分の好奇心が、それを許してくれない。
自分がよく見ているのは音楽関連で
特定のアーティストというより、
名シーンやMCを含めたライブ映像が中心なんだけど
ただ最近、
その体験が消費に近づいている気がしている。
ほとんどの人は、コメントを書かない
ここでひとつ、前提として書いておきたいこととして、
世間一般で見れば
動画を見てコメントまで残す人は多くはないと思う。
大半の視聴者は、
見て、感じて、心の中で完結させて、次へ進む。
それはごく自然なことだし、だから「いいねボタン」がちょうど良い存在になってくれているわけだ。
コメント欄は、感動の答え合わせみたいな場所だ
ただ、自分は動画を見終わったあと、コメント欄を見るのが好きだったりする。
自分と同じことを感じた人の言葉があると、少し安心するし、
逆に、まったく違う視点のコメントを見ると、
「そんな見方があったのか」と、世界が少し広がる。
コメントを残せば、交流が生まれるし
思考が磨かれることだって時にはある。
このやり取りが、意外と面白い。
「なんとなく良かった」を言葉にしようとすると、止まる
最初は、うまく書けなかった。
「なんとなく良かった」
「理由はわからないけど感動した」
その“なんとなく”を言葉にしようとすると、
驚くほど手が止まる。
感動は、あとから分解してもいい
何度か続けているうちに、
自分に起きた感動という現象の正体が、少しずつ分解できるようになってきた。
メロディなのか。
間なのか。
視線なのか。
その場の空気なのか。
感動は偶然じゃなく、
いくつかの要素が重なった結果なんだと、
構造として見えるようになってきた。
補足
もちろん、
その瞬間に感じたものを、まっすぐ受け取ることがいちばん大切だと思っている。
感動は、分析するためにあるものじゃないし、
言葉にできなくても、心が動いたという事実だけで十分だ。ただ、自分の場合はあとから振り返るときに、
「なぜあれほど心が動いたのか」を静かに考えてみるようになった。
それは感動を疑うためではなく、
もう一度、ちゃんと味わい直すための行為に近い。これが俗に言うインプットだと思っています。
写真に返ってきたとき、変化に気づいた
これは、そのまま撮影にも返ってきた。
「なぜ、この写真が好きなのか」
「なぜ、この瞬間を撮りたいと思ったのか」
それを自分なりに説明できるようになると、
次にシャッターを切るときの解像度が、少し上がった気がする。
次への指標にもなってすごくいい。
自分自身が
感動を受け取るだけのアンテナから、
感動を情報に分解できるセンサーになった気がする。
これを感性が豊かになったと表現すると格好良いのかも知れないけど、技術や思想を主体としたブログなので上記のように表現しました。
ともかく、写真や音楽、映像など、創作を軸に生きている人間にとって、
これはかなり大きな変化だったし、強みにもなったことは事実。
感動を、少しだけ返してみる
そして、ここからがいちばん大事なところ。
感動を理解できるようになると、
今度はそれを「返したく」なる。
完璧じゃなくていい。
大きなことじゃなくていい。
写真でも、言葉でも、空気でもいい。
少しだけ、自分なりの二次創作として外に出してみる。
それが、誰かの感動の一辺になれたら、
こんなに嬉しいことはない。
もしそれが、次の世代を担う人の糧になるのだとしたら、
大きな連続性のなかに、そっと参加できたような喜びもある。
この循環こそが、
結果的に自分自身の技術をいちばん育ててくれる。
感動を雑に扱わない場所でありたい
レモンフォトの撮影会でも、これを実践したいと最近は思うし
本当に写真を良くするものは、こういった柔らかい部分だと思うようになりました。
感動を雑に扱わないこと。
人を、表現を、その場の空気を、大切にすること。
だから、
撮る側も、撮られる側も、
安心して感情を預けられる場所でありたい。
感動にちゃんと向き合う人が、
また次の感動を生む。
その循環の中に、
写真も、人も、そっと置いていきたい。

