友達が送ってくれた動画や写真に、
「それ知ってる」「◯◯だよね」と返してしまうことがある。
間違ってはいない、が 会話としても成立しているかを反芻すると何とも言えない気持ちになる。
情報としては、たぶん正解だ。
でも、そのやり取りが終わったあと、
画面の向こうに、何かが置き去りにされている気がする。
言いそびれたままの感情のような、
胸の奥に残る、小さな静けさ。
相手が差し出しているのは、
「これで心が動いたんだけど、あなたはどう?」
という問いなのだと思う。
それに対して、
「知っている」「◯◯に分類できるよね」で返してしまったことの違和感。
たぶん、昔の自分は
ずっとその場所に立ち続けていた。猛省。
未知な情報を、人はラベリングすることで安心する。
その向こうにある手触りに、ほとんど触れないでいた。
映画も音楽も写真も
「知っている」「ジャンルがわかる」「誰の作品か言える」
そうやってラベルを貼った瞬間に、どこかで安心してしまっていた。
もう踏み込まなくていい、という許可を自分に出すように。
不思議なもので
それで満たされた記憶は、あまり残らない。
心は動いているはずなのに
その動きが、言葉にも、記憶にも、定着しないまま流れていく。
あるとき、写真の先輩に言われた。
「好きなカットがあったら、
なぜ好きなのかを、自分にだけでいいから説明してみるといい」
で、やってみた。
けれど、思った以上に、言葉が出てこない。
「雰囲気がいい」
「なんとなく」
それ以上、先に進めない。
悔しくて、その詰まりを抱えたまま、しばらく続けてみた。
少しずつ、別の言葉が浮かんでくる。
「光が逃げていく感じがする」
「この目線、どこか不安そうだ」
「この間が、ちょっと引っかかる」
それは評論でも、正解探しでもなく
ただ、自分の中で起きた反応を拾い上げていくだけ。
解像度があがるのがわかった。
気づけば その繰り返しが、自分の中に一本の細い回路を作っていた気がする。
鑑賞する回路、と自分では呼んでいる。
この鑑賞の回路が動きはじめると、
世界の見え方が、少し変わった。
写真は「きれいな画像」ではなくなり、
そこに残った人の気配や、ためらいを帯びはじめる。
音楽は「ただの曲」ではなく、
誰かの呼吸や、その日の気分まで含んだ出来事になる。
ガラス越しに眺めていた景色に、実際に降り立ったような感覚に近い。
匂いと温度が、入り込んでくる。
情報処理、もちろんラベルを貼ること自体が悪いわけではない。
名前を知ることも、ジャンルを知ることも、大切だし必要なことだ。
ただ
「誰それ」「有名」「○○っぽい」
そういう情報で安心した瞬間に、
そこにあったはずの手触りを、見送ってしまう恐れがある。
ここが、少し怖い。
もし今、写真や音楽が好きで
でもどこか物足りなさを感じているなら
小さなことを試してみるのも手かも知れない。
気になったシーンを、すぐ流さずに少しだけ掘り下げる。
そして、なぜそこで立ち止まったのかを、
言葉に書き出してみる。
うまく言えなくていい。
詰まってもいい。
その詰まりこそが、回路が動きはじめた合図だと思う。
ここ数年、踊りや音楽に深く惹かれてきたのも
たぶんこの鑑賞の回路が、少しずつ強くなっていくのを
確かめたかったからだと思っている。
同時に、自分の創作に深みを足したくて
静かに測り直す時間でもあったと思う。
写真や音楽は、詳しい人だけのものではない。
しかし、深く味わおうとする人のものではある。
そう考えると世界は、思っているよりも、
ずっと多くのものを差し出している。
それに気づけるかどうかは、ほんの少し立ち止まれるかどうかだけで決まる。
これから写真を始める誰かに
何かが残ってくれたらいいと思って、書いてみました。



